第2話「知られたくない事」 前編

やってしまった。
圭の頭の中はその事でいっぱいになった。
一、二年合同で出撃した戦闘において、黒軍の伏兵に背中を軽く斬られてしまったのである。
新入生とはいえ、二年間兄と共に実戦に立つ機会を度々得ていたからこその慢心が原因だと分析していた。
まだ新しいブレザーは早速破れ、その下に着ている派手なパーカーも少し破れてしまっている。
決して深くはないが、背中に一直線に入った傷はそれなりに大きく、白いブレザーの破れ目を赤く染めていた。
戦闘が終了するや否や、居た堪れなくなって半ば逃げ出す様に圭がやって来たのは、寮の裏に広がる森の入口。
学校の前にある道の森よりも断然深く、一際大きな木が寮を見下ろす様に立っている。
圭は荒い呼吸のままその木の下まで行くと、ずるずると幹に沿って根元に崩れ込んだ。
大きく一度息を吐くと、うめき声を上げながら徐々にそのまま意識を失っていく。

「うう、くそっ……意識、が……」

新入生の入学から、二週間が過ぎていた。


「かっしーってば、新学年始まったばっかなんだからしっかりしてよー!」

夕焼け射し込む女子寮の廊下に、白上かえで(しらかみかえで)の弾ける様な声が響いた。
真っ直ぐに切り揃えられた前髪と横髪以外をふわふわとウェーブさせ一つに纏めた赤茶色の髪が、
黒々とした瞳が、夕日を受けて煌めく。
彼女は一般戦闘部の仕事を終えて部屋に戻る道すがら、左手首の装備電話で通話していた。
装備電話……通称ソービは、生徒全員に支給される腕時計型の電話である。
その名の通り手首に装備する事で通話が出来る事の他に、
特殊なレーザーを出して一般的な弾丸をも通さないシールドを張る事も可能だ。
かえではソービ越しでは相手に表情が見えるわけでもないのに、少し怒った顔をしている。
ほんのり紅潮した鼻背と鼻尖の間を分断するような、古い傷跡が少し生々しい。
通話の相手であるかえでの親しい友人の一人、
かっしーと呼ばれた万白魁(たかしろかい)は、済まなさそうに言葉を返した。

「悪ぃ、二年にもなって……。かえで、怪我無かったか? もしあったらちゃんと白に……」

魁は司令部で参謀を務めている。
一戦闘の作戦を立て、司令塔に伝えさせるのが彼の役目であり、入隊する以前から何度も繰り返してきた。
今回はかえで達が参加した戦闘の作戦を立てたのだが、読みが大きく外れてしまったのである。
犠牲者こそ出なかったが、予想以上の怪我人に治療専門の救護班は忙しくなる事だろう。
そして白とは、魁とかえでの親しい友人で、救護班に所属している九十九白(つくもはく)の事である。
かえでは魁の心配そうな声を遮って、頬を膨らませた。

「もー! もし怪我してたら、かっしーに言われなくたって、すぐシロちゃんとこ行くよーだ! というかむしろ……」

「あーはいはい分かった分かった。じゃあ手前は大丈夫なんだな?」

話の流れが変わってしまう事を予測して、今度は魁がかえでの声を遮る。
彼女は突っ走るあまり考えが行き過ぎてしまう傾向があり、止めなければ口にした考えを実行し兼ねないからだ。
そんな事とは知らないかえでは、魁の問い掛けにけろっとした声で「うんまあ」と答えた。
ちなみにシロちゃん、というのも九十九白の愛称である。
かえではごく一部ではあるが、親しい友人にこの様な愛称を付けて呼ぶのが常になっていた。

「その代わり、近くにいた新一年がちょっと、ねー。……あっほら、入学式で新入生代表挨拶してた!」

かえでは明るい口調を崩さない。
まるで彼女がふざけているかの様で、生真面目な人間が聞けば眉を顰めるだろうが、これが彼女の通常である。
言うまでもなくそれに慣れている魁は、かえでの態度を気にも留めず、少し考えた後記憶を引っ張り出した。
司令部は司令塔も参謀も、いかに人員の名前や特徴を記憶しているかが重要だからである。

「ああ……工さんの弟の鈴虫圭か。悪い事したな。今そいつはどこにいるんだ?」

「さあ、シロちゃん達のとこじゃない? 仕事終わったらさっさとどっか行っちゃってさー」

困ったものだとでも言いたげに、かえでは腕を軽く曲げるジェスチャをしてみせる。
勿論彼女の仕草は魁に見えるわけではない。
喋りつつ自分の部屋に辿り着くと、彼女は武器である鎖鎌を所定の場所に置いた。
その音を聞きながら、魁は普段より低い声でうーん……と唸る。
布の擦れる音が聞こえ、かえでは魁が腕組みをしたのだろうと予想した。
結局、あの怪我ならば救護班の世話にならない筈が無いだろうというかえでの意見で、
二人は白の居る救護室で落ち合う事に決定した。

「んじゃ、救護室で」

「……かっしー」

通話を切ろうとした矢先、突然トーンの低くなった声で名前を呼ばれ、魁はくきりと心臓を鳴らす。
かえでがその様な声で語る事は滅多に無い。
だからこそ、不意に調子が変わると不安感を煽られるのだ。
少なくとも、良い予感はしない。
以前も出くわした事のある、妙な違和感だと魁は思いつつ、平静を装って応答した。
しかし彼の不安感に反して、次の瞬間にはかえでは「にゃはは!」と笑ったのである。
彼女特有の笑い方で、それもとびきり明るく、脳裏に笑顔が咲くのが思い浮かぶ程だ。
先程の調子がまるで無かった事になっている。
魁は面食らった様子で、不思議そうに眉を顰めた。

「何でもないない! じゃーまた後でね!」

全くもっていつも通りの調子のまま、かえでから通話を切られる。
魁は首を傾げつつ、自身が居た司令室を後にした。
何がなんだか、魁にはついて行けなかった。
そういう部分がかえでには少なからずあるのだが、普段感じるそれとはまた異なった印象だったのである。
不安感が起こす胸騒ぎが杞憂である事を、魁は心の中で切に願ったのであった。


魁の後輩、司令部で司令塔を務める迫みかる(さこみかる)は、元々自然が好きだった。
住んでいた土地の森によく似た、寮裏の森はすっかり彼女のお気に入りである。
彼女は元同級生の根回しや、正直過ぎる言動などの所為で、二週間が過ぎても未だ殆ど友達と呼べる友達が居なかった。
夕食前に時間が空くと一人で森を散策していたので、
木にもたれ掛かったまま意識を失っている圭を見つける事が出来たのである。

「鈴虫圭、くん……? 寝ちゃってますね。……って、あ! 怪我してるじゃないですか!
大丈夫ですか? 起きられませんか? ……うーん無理そうですね。私一人で、運べるか、どうか……っ」

みかるは人と話す時と変わらないほどの声の音量で独り言を言いながら、
何とか圭を持ち上げたり背負ったり出来ないかと暫く奮闘した。
しかし、力の抜けた体とは通常より重いものである。
ましてやみかるは女子の中でも小柄な部類に入り、戦闘部の適性も皆無であった程に力が無い。
どう頑張っても引きずったりずり落ちたりしてしまう。
途方に暮れて暫く立ち尽くしていると、寮の裏口の辺りに人影が見えた。
みかるは咄嗟にぴょんぴょん跳ねて大きく手を振りながら、大声でその人物を呼んだ。
呼ばれた相手は辺りを一度窺って自分が呼ばれているのだという事を確認すると、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。
はっきりと顔が認識出来るまで近付いた時、お互い知った顔であった事に安堵した。

「君は確か、みかるちゃん? それに鈴虫圭くん……何かあったの?」

「はい、私は司令部の迫みかるです! 貴方は同隊庶務部の……ええと確か、神原……ヤスハルくん!」

クラスメートという事もあるが、
みかるは司令部として人員の情報を覚える必要性から、やって来た安治の事も記憶していたのであった。
しかし、安治を「ヤスハル」と読むのは誤りである。
時々間違われる事があるので、安治も既に慣れている。
そして彼の性格上、間違われる度にこの読み方で申し訳ないと感じる思いを募らせていた。

「ごめんねみかちゃん、僕ヤスハルじゃなくてアンジなんだ……」

みかるは一人一人の名簿に目を通して、顔と名前を一致させる程度には既に記憶している。
しかし、名前の漢字の読みまではいちいち見ていなかった。
安治のように読みが珍しい名前でも、イメージで覚えていたのである。
彼女ははっとして、胸の前で申し訳なさそうに手を合わせた。

「ごめんなさい! 神原、安治くんですね。
でもちょうど良かったです。圭くんが怪我してて……一人では運べないので手伝ってください」

司令官として指揮する時のようにはっきりと指示するみかるの頼みを、安治は断るはずが無かった。
それを分かっていたかのように、みかるは依頼する様な頼み方をしない。
そもそもみかるの呼びかけを無視しなかった時点で、
余程の事が無い限り頼みを断る事は無いだろうという自信が彼女にはあった。
安堵した様子で、圭を抱えようとする安治に手を貸したみかるであったが、
ふと力を緩めて何かを考え始めた安治に、不思議そうに首を傾げる。

「救護室って何処にあるんだろ。みかちゃん分かる?」

安治の所属する庶務部も、みかるの所属する司令部も、仕事次第では殆ど怪我をしない部だ。
二人共入学してから二週間では、救護班の世話になる事など何も無かった。
故に、救護班の居る救護室が何処にあるのか、まだ記憶出来ていないのである。
問われたみかるも渋い顔で首を捻った。
すると突然、彼らが集まった一際背の高い木の隣にある普通の高さの木の枝ががさりと強く揺れる音がしたかと思うと、
その枝に逆さまにぶら下がる者が現れたのである。
驚いた安治とみかるは、二人それぞれ小さな叫び声を上げた。
切り口の綺麗に切り揃えられた白に近い銀髪が、少しずつ束になって重力に屈している。
いかにも寝起きの眠そうな目をしているその少年に、安治は見覚えがあった。

「あ。暗殺部の本城平承くん」

「そういうあんたは……庶務部の神原安治、だっけ」

平承は枝にぶら下がったままだったが、二人で顔を見合わせて少しにやりと笑い合う。
まるでお互いの部を交換する様に入隊・入部した二人である。
よくよくお互いを見てみると、身長や体格はとても似通っているが、全く正反対の色合いをしていることが分かった。
白銀の髪、日に焼けた肌に碧眼の平承に対して、艶やかな黒髪、真っ黒なクマの目立つ白い肌に赤眼の安治である。
安治がぼんやりしながら、先述の一件における親近感と二人の差異に対する奇妙な感覚を覚えている間、
みかるは何故こんな所に居たのかを聞いていた。
みかると平承は同じ中学校だった友人であり、至極友好的にみかるは話しかけている。
しかし平承は未だに彼女の明るく積極的な性格には慣れていないらしく、軽くたじろぎながらボソボソと答えた。

「木の上で一眠りしていたら、あんたの大声が聞こえて、な……。おれ、多分救護室の場所、わかるから、その……」

「何て幸運なんでしょう! では私と安治くんで圭くんを運びますので、平承くんは案内をお願いします」

平承が言い終えないうちにみかるは胸の前で嬉しそうに手を叩き、てきぱきと皆に指示を出した。
司令部らしい、回転の早さである。
彼女は圭を安治とで運ぶ間にも、自分の幸運を喜んだ。
まるで体質のように幸運が舞い込んでくるのが常なのだと、彼女は笑顔で語る。
流石にそれは、みかるの思い込みなのではないかと安治は思った。
彼女のポジティブな思考が、嫌な事も良いように考えているだけではないかと。
しかし、不意にみかるの二つ結びの境目、うなじの辺りに安治の目が行った時、
確かにそこに何かの花を模した黒い刺青があるのが分かった。
何故かそれを見た後は、彼女が幸運の持ち主である事が偶然ではないのではないかと、安治ですら思ったのである。