朝食を終えた本城平承は、寮裏の木の下で二度寝をしていた。 部屋にブレザーを置いてきたままであったが、それすら気にしない。 今日は久し振りに授業も暗殺部の仕事も無いのである。 ブレザーを着る必要は無く、この場を動く必要も無い。 しかも、日中は外で寝ることの多い平承にとって、これほど睡眠日和の日は無いほどの快晴である。 あたたかい木漏れ日を受けながら、彼は平和で快適な眠りについていた。 はずだった。 「やっと見つけたわ……」 苛立ちを含んだ声。 突然顔を覆い呼吸を軽く妨げる布の感触。 土を踏む足音。 平承は嫌な予感がした。 彼にしては珍しく早く目覚め、顔に掛けられた自分のブレザーを恐る恐る手で退かせる。 見覚えのある赤い靴。 白いオーバーニーソックスに包まれた形の良い脚。 紅色に白いフリル、橙色の帯の改造着物、そして白いブレザー。 前髪と横髪の真っ直ぐに切り揃えられた、腰まで届く艶やかな黒髪。 勝ち気そうに平承を見下ろす、切れ長な紅色の瞳。 「べに、こ……?」 寝起きの掠れた声でその名を呼ぶと、彼女はお得意の小生意気な微笑を浮かべた。 右手には大剣を持ち、背後に構えて影を作っている。 「出かけるわよ本城。財布の準備してきて」 それは、どんな司令官の指示よりも絶対的な一言であった。 ××× 和服、帯、洋服…… 気に入った服を紅子は次々と購入していく。 しかし紅子は殆どお金を持っていない。 支払いは勿論、荷物持ちも平承である。 平承は休日の睡眠を妨げられた事による、少し不機嫌で眠そうな顔で、 自分が持っている紅子の荷物を見下ろした。 「なあ……こんなに、買って、どうする、つもり、だ?」 確かに紅子は、未来からほぼ身一つ状態でやって来た為、 お金はおろか様々な生活必需品をも持ち合わせていない。 しかしよりによって購入しているのは私服の類ばかりである。 大量に購入しても、今の生活で着る機会はほとんど無く、その中でもほんの一部だろう。 ましてやいつか未来に帰る身ならば尚更である。 そういう意味も込めて平承は不平不満に近い問い掛けをしてみせたが、 紅子は意外にも嬉しそうな笑みを彼に向かって返した。 「みかるがね、和服と洋服合わせて、今あたしが着てるみたいな服作ってあげるって言ってくれたの。 ……お母さんとの思い出、少しでも未来に持って帰りたくって」 そう言って紅子は前を向き、何処か遠くを見つめる。 その横顔は何処か寂しそうな色を帯びていた。 紅子の母親、迫みかるとの未来世界での思い出は、 殆どが赤軍の施設での恐怖に包まれた暮らしと、海で最後の別れをした事だけである。 平承が考えるに、紅子がやって来た世界と今の世界は異なる軸に存在する別世界である。 しかし紅子にとっては、みかるが母親であることに変わりはない。 みかるは紅子が未来からやって来た自分の娘だと聞いてはいるが、恐らく冗談半分にしか信じてはいないだろう。 それでもこうして紅子の事を気にかけていた事に、 平承は少し驚いたと同時に、僅かでも不満を抱いた自分が恥ずかしくなった。 俯きながら歩いていると、不意に見覚えのある喫茶店が目に入る。 平承は顔を上げて、紅子の腕を引いた。 「紅子、この店、入らないか」 「ええっ? あっちょっと! 何勝手に……」 店内の静かな雰囲気に、自ずと紅子の声もフェードアウトしていく。 クラシックな調度品で揃えられたその喫茶店は、古いながらも高級そうで、 二人の身の丈に合っているとは到底思えない。 それでも有無を言わせず席についた平承と、ぬっとやって来た礼儀正しいウェイトレスに促されるままに、 紅子は緊張した声で紅茶とアイスクリームを注文した。 平承はメニューを見る体勢のまま上目でそんな状態の彼女を一瞥すると、 少しだけ口角を上げてコーヒーを注文する。 ウェイトレスが去るや否や、紅子は両肘をテーブルに付いて顎を両手の上に乗せると、 怪訝な顔で唇を軽く尖らせながら、文句を言おうとした。 「この店。みかると、初めて話した日に、今みたいに、みかるがおれを、強引に、連れてきた店、なんだ。 みかるのツケで、いつでも行っていい、って、言われたから……間接的、だが、みかるの奢り、だ」 平承は紅子が何か言うより早くもたどたどしく言って、ぎこちなく微笑む。 少し驚いた様子で目を見開き平承を見つめていた紅子であったが、 ややあってから彼から目を逸らし、軽くその目を伏せた。 何事かと、はらはらしながら覗き込む平承に、紅子はぼそぼそと問い掛ける。 「あんたとみかるって……その、そんなに仲良いのに、何で付き合わないの……?」 今度は平承が驚いて目を見開く番であった。 みかるに関して、そのような事を考えたことは一度もない。 何故ならば彼は別世界の平承が別世界の紅子を好きだったという記憶を、 紅子の存在しなくなった別世界でも受け継ぎ続け、 この世界の平承もまた、一途に紅子の事が好きだからである。 しかし本人を目の前にしてそのような事を言う勇気は、消極的な質である彼には無かった。 ましてや、別の軸に存在していた者ならば尚更である。 「付き合うこと、だけが、男女の関係、じゃない、だろ……。 おれは、みかるとそうなる事を、望んでないし、みかるはほら、面食いなとこ、あるし……」 平承はなるべく言葉を選んで答えた。 その答えを聞いて、紅子は何故か安堵している自分に気づく。 いくら平承とみかるの仲が良くても、本当に二人が付き合って欲しいなどとは微塵も思っていないのである。 それは神原安治が自分の父親だと思っている故に、その運命は変えたくないという気持ちもあった。 しかし、確実にそれだけの理由ではないのである。 紅子はモヤモヤした気持ちを抱えながらも、少し気まずくなった空気を察して明るく切り出した。 「そ、そういうとこは、あたしお母さんに似なかったのね!」 「というか、紅子とみかるって、あんま似てない……。目の色は、同じ、だけど……」 そう言ってまじまじと見つめてくる平承に、紅子はどぎまぎして視線を泳がせる。 平承は彼女を眺めたまま、コーヒーが運ばれてきてもぼんやりと考え事をしていた。 紅子は安治が父、みかるが母であると主張しているが、果たしてそうなのだろうかと。 平承と紅子が同じ世界の同じ時空に存在していた時、みかるではないがみかるに似た人物は居た。 しかし、その人物と紅子は決して親子ではなかったのである。 ましてや安治は、存在自体がその世界には居なかったと平承は認識していた。 しかも、その世界のみかる的存在の人物が好意を寄せていたのは、勿論安治的存在の人物ではない。 一体あの人物はこの世界での誰なのだろうと平承が頭を悩ませていると、 紅子はひとすくいのアイスクリームを口にした後、大きなため息をついた。 少し怒ったような、ひきつった微笑を浮かべる。 「あたしを目の前に長々と考え事とは、いい度胸じゃない……」 「あ、すまん。……でも、考えてたのは、あんたの事、だよ」 紅子の腹立たしそうな声音に流石に気付いた平承は、ハッと我に返って肩を竦めた。 深い意味など無い筈であるが、彼の言葉に紅子は硬直し、頬がカッと熱くなるのを感じる。 そのような事を、不意になんの意識もせずに、平気で言うものだから憎たらしいと彼女は内心思った。 彼のペースに巻き込まれそうになる前に、紅子は小さく盛られた上品なアイスクリームを豪快にかき込んだ。 ××× 喫茶店を出た後も、紅子の買い物は続いた。 紅子と買い物に行く時点で覚悟はしていたものの、平承の持ち合わせのお金も底を尽き始める。 しかし嬉しそうに楽しそうに歩いている紅子には中々声を掛けづらかった。 タイミングを見計らっていると、不意に不穏な気配を平承は感じ取る。 紅子も少し遅れてそれを察知したらしく、 一度だけ平承の方に目配せをしたが、すぐにまた平静を装って楽しそうに歩き始めた。 そこで漸く、平承は武器を持って来なかった事に気が付く。 いくら平承達が休日と言えど、敵は休日ではないのである。 そして白のブレザーは自分が白軍であると主張しているようなものだ。 自分の甘さに一人落ち込んでいると、紅子は平承を手で制しつつ彼より一歩前に進み出た。 平承が何か言おうとするより先に、持っていた鞄を地面に放って素早く大剣で縦に空を切る。 そして紅子は、振り返って屈託のない笑みを浮かべた。 「大丈夫。あたしが守ってあげるから」 紅子は突然戦場と化した通りを鮮やかに舞った。 流石は転校生扱いながらも切り込み隊長を任されているだけはある、と平承は感心する。 後進の負担をなるべく軽減する為に、 漏れを最低限無くして敵を確実に仕留めていくのが彼女達の役目だからである。 大剣は単純な力が増幅されやすいが、その大きさゆえに反動や隙が出来やすい。 しかしそれを感じさせない、圧倒的な強さと戦闘センスが紅子にはあった。 暗殺術には自信のある平承でも、面と向かって正々堂々戦えば紅子には勝てないだろう。 その強さは、紅子曰く赤軍の施設で半ば強制的に訓練された「作られた強さ」である。 苦々しげにその事を口にしていた彼女の表情や口調を思い出して、平承は突然顔を歪ませた。 荷物を手に持ったまま、彼はその場に崩れ落ちるようにして蹲る。 敵をあっという間に殲滅し終え、 所々血に濡れたブレザーを脱ぎながら平承の元に帰ってきた紅子は、ぎょっとして彼に駆け寄った。 「本城!?」 平承はゆっくりとした動作で顔を擡げる。 そして、自嘲気味にへらりと笑みを返した。 「すまん……。あんたが、戦ってんのを見るの、なんか、つらくて……」 「もう、ツラいのはこっちの方よ! あと少しで買い物終わるから、あんたはこれ持ってそこらへんで休んでて」 紅子は顎でベンチを示す。 そして汚れたブレザーを平承に向かって投げると、すぐに踵を返して別の通りへと消えて行った。 このまま勝手に動いて紅子とはぐれてはいけないと思い、 平承は大人しく言われた通りに彼女のブレザーと荷物を持って示されたベンチに腰掛ける。 そう、本当に辛いとすれば紅子なのである。 赤軍に捕らえられ、両親を亡くし、自分の未来に希望が見出せず絶望の淵に立たされた彼女が取った行動。 その行動によって彼女は、よりによって赤軍に身に付けさせられた強さを生かして鈴虫圭を、 そして白軍の仲間を守る為に、少なくともこの世界にいる間は戦わねばならないのである。 止まることは許されない。 赤い靴を履いた少女は、踊り続けなければいけない運命なのである。 そして彼女の目的が達成された暁には、足をちょん切らない代わりに元いた時空に戻らねばならない。 恐らく別の軸がある世界から来たこの紅子自身の未来は、全く干渉を受けないだろう。 あくまでもこの世界の未来が、この世界で生まれてくるであろう紅子の未来が変わるのみである。 それでも、生まれてくるであろう紅子の未来の為に、彼女は覚悟を決めたのだった。 それが彼女にとっての後悔しない選択だったのである。 その事を今更第三者に指摘されたところで、辛いのは当然だった。 辛い事は重々承知で、紅子は一人立ち向かい続けている。 その辛さを、普段はひた隠しにして。 平承はまたも自分の浅はかな言動を恥じつつ、 ベンチに落ち着いた事でふわふわと襲いかかる睡魔に身を委ねてしまった。 暫くして買い物を終えて戻ってきた紅子が、呆れた様なため息をつく。 しかしすぐに、彼女の平承を見下ろす目は寂しそうな色に変わった。 「こんな時に寝るなんて、よっぽど退屈だったのね、本城……」 紅子は小さく呟いて、自分で虚しくなる。 誰も聞いていないからこそ、吐ける弱音だったのだが…… 「いや、眠いものは、眠い、だけ。……おれは、結構、楽しかった」 平承は片目だけ開いて、柔らかく微笑む。 紅子が戻ってきた時には、既に気配を感じて目覚めていたのである。 その事にも、平承が珍しく自分の気持ちを断定して発言した事にも紅子は驚き、面食らった表情になった。 しかしすぐに険しい顔つきになると、新たに手に入れた荷物の一部を振り上げて、平承の頭の上に振り下ろす。 「起きてるんならさっさと反応しなさいよ!」 ××× 平承は頭に残る鈍い痛みを感じながら、大量の荷物を持って帰り道を歩いた。 何処か殺気立った雰囲気を醸し出している紅子は一言も喋らず、 平承もそんな彼女に話しかけられる程無謀ではない。 結局学校に戻るまで二人は会話しなかった。 門の前で紅子が一度立ち止まったので、平承も合わせて立ち止まる。 紅子が唯一自分で持っていた鞄の中から小さな包みを取り出すと、 彼女は横を向いたままでずいっと平承の鼻先にそれを差し出した。 「今日のお礼よ。……折角の休みを邪魔して、悪かったわね」 平承は一言断って包みを開くと、中から艶やかな紅色の透き通ったガラス玉の付いたチョーカーが出てくる。 その色は紅子の瞳の色とよく似ていた。 紅子は鞄の中からもうひとつ包みを出すと、それを開いて少し恥ずかしそうに摘み上げる。 同じ形のチョーカーであったが、こちらはガラス玉の色が鮮やかな空色である。 「こんなの、貰っていい、のか?」 平承は光をキラキラと映す玉を様々な方向から眺めながら、嬉しそうな色を含んだ声音で問い掛ける。 覗き込めば紅色の世界が。 紅子の瞳の色に包まれた世界が広がった。 彼の予想外の反応に狼狽えた紅子は、バタバタと手を忙しなく振りながらまくし立て始める。 「た、たまたま店で二つ並んでて、つい両方買っちゃったから、片方あげるってだけよ。 そ、それに、ついて来てくれた事に対する、相応の報酬に過ぎないんだから! みかるから少し貰ったお金で買ったし……」 「嬉しい」 平承の一言が、紅子の流れるような言葉を遮った。 「なんか、こういうの、デート、みたい、だなって。 あ、『おれ』は、初めて、だけど……休日返上でも、全然、良かった、と思う」 紅子は平承の言葉に、瞬時に耳まで紅潮する。 二人の顔は夕焼けに照らされており、その変化が平承に伝わらない事が紅子にとっては救いであった。 何の恥じらいも無くそのような事を言ってのける平承の言葉に恥ずかしくなっている自分に気付いて、 紅子は余計に恥ずかしくなる。 そのような思いを悟られぬように、彼女は平承に背を向けて、ぼそぼそと呟いた。 「そ、そんな事言うなら、また休日返上させてやるわよ……。 あとそれ、大事にしなかったら未来のあたしがシメてやるから!」 振り返った時の紅子の笑顔に、平承は心が痛んだ。 平承が初めて紅子と出会い、初めて紅子を失った世界以来、紅子が現れる事の無かった複数の世界の事を思い出す。 どんな些細なきっかけで、再び紅子の居ない世界になるか分からない。 この世界から、目の前にいる紅子が去った後、紅子が生まれない未来になる事も有り得るのである。 それなのに、目の前にいる紅子はこの世界の未来を信じている。 不確定な憶測に過ぎない事を平気で信じる姿は、初めて出会った紅子と全く変わらない。 その事が堪らなく平承には痛かったが、彼はその痛みを心の中にしまって生きていくのだろう。 そして紅子は、平承の手の中に自分の色を残して去って行く。 「へーすけ! ねえこれ!」 背伸びして何とか手の届く場所にあったそれを、少女の幼い指がつまみ上げる。 誇らしく掲げられた両手の中には鮮やかな空色。 平承がいつも着けているチョーカーと、色は違えどよく似た形をした、ガラス玉の付いたチョーカーである。 平承がそれを手に取ると、少女は急に後ろに手を引っ込めて組み、もじもじと恥ずかしそうに彼を見上げた。 「べつに、おそろいにしたい、わけじゃないの……。 ただ、へーすけの目の色みたいで、とってもきれいで、あたしがほしいだけで……」 ぱっと俯く少女の顔を覗き込むように、平承は彼女の目線に合わせてしゃがむ。 チョーカーを持っていない方の手でぽん、と肩に手を添えると、顔を上げた少女に柔らかく微笑みかけた。 「大事に、できる?」 「! ……うん!」 少女は顔をぱあっと輝かせると、紅色の瞳をきらきらさせながら頷く。 こんな表情をされては、財布の紐もつい緩めてしまうものである。 平承もよく知っている彼女の両親が、幸せなため息をついて親馬鹿ぶりを語っていた気持ちがよく分かる。 ましてや他人の平承では、心を鬼にする事すら出来なかった。 肩に添えていた手で少女の頭を優しく撫でると、平承はレジへと向かう。 ……不意に、風が彼の耳を掠めた。 『大事にしてくれて、ありがと……』 少し照れた紅子の声が、平承にははっきりと聞こえる。 瞳のような紅色のガラス玉が、きらりと光った。