鈴虫圭が貰ったチョコレートの包みの山に、新たに一つ加わるであろうそれは、 彼女の先輩である白上かえでから貰ったものである。 彼女は、圭が実は女子である事をまだ知らない。 女子だと知っていても圭にチョコレートを渡す女子は、朽縄鏡、迫みかる、そして紅子だけだ。 そして女子だと知っていようがいまいが、 少なからず圭を知る人物ならば男子であろうと彼女にチョコレートを渡すだろう。 「白上先輩まで……ありがとうございます! 俺、チョコ大好きなんですよ!」 先輩はおろか同級生であっても、同部の生徒とは付かず離れずの関係である圭にしては、 かえでは仲の良い先輩の部類に入るだろう。 無類のチョコレート好きがこんな贈り物までされては、益々懐かずにはいられまい。 「知ってるともー! 可愛い後輩くんの為に一生懸命作ったから食べてね!」 溌剌とした笑顔を返すかえでの背後に、不穏な空気を纏った人影がぬっと現れる。 百戦錬磨の一般戦闘部二人ですら、その気配を直前まで感じる事ができなかった。 圭がその存在を認めるや否や、強張った表情になるのを見て、かえでは得意げに背筋を伸ばして鼻を鳴らす。 「ふっふーん? 鈴虫のこの反応、気配を最低限感じさせないこの技術…… さてはシロちゃんだな! わたしの後ろに立つなー!」 答え合わせをするかの様に、かえでは振り返ろうとする。 しかしそれよりも速く、かえでのウェーブして大きく膨らんだ一つ結びの真ん中が、虫を潰すかの如く両手に挟まれた。 能面のような顔付きのままで、手をこすり合わせてかえでの髪の毛をわしゃわしゃと混ぜくる姿は中々に恐怖である。 「つ、九十九先輩……」 かえでが答え合わせをするまでもなく、人影の正体は九十九白であった。 暫くして彼の魔の手から逃れたかえでは、ふわふわからもじゃもじゃに変わった髪を撫でつけながら、 振り返って頬を膨らませる。 漫才の様な二人の応酬が二、三度あった後、 白はかえでの隣に並び立つと、圭の手の中にあるチョコレートの入った包みを指し示した。 「鈴虫君、かえではバレンタイン前から媚薬の作り方を俺に聞いてきたり、 妙な試作品を魁に食べさせたりしていたんだけど…… それでもそのチョコレート、食べる気あるの」 圭は目を見開いて、手の中の包みとかえでとを交互に見比べる。 驚きを隠せない後輩の目の前で、かえでは慌てて両手を小刻みに振り、白を横目で何度も見ながら弁解した。 「ぬわっ、そんな事言わないでよシロちゃん! 鈴虫の分にそんな物騒なモノ入れるわけないじゃーん!」 「じゃあ誰の分に入れたの」 白の一言にぐっと言葉を詰まらせるかえで。 途端に静かになる彼女の前に割って立ち入り、圭は包みを握りしめながら白を上目で睨み付ける。 白どころかかえでよりも背の低い圭が白を睨んでもあまり効果は無いのだが、 白は冷ややかな視線を落として圭の言葉を待った。 「その、び、媚薬が誰の分に入ってても良いですけど、俺の分に入ってないと仰った白上先輩の言葉は信じます」 圭が言い終えた後も、白はたっぷり数秒間を開ける。 彼女が言葉を重ねるより先に、息を吐いて沈黙を破り、くるりと圭とかえでに背を向けた。 「どうぞご勝手に」 有無を言わせず立ち去る白の背に、かえでは態とらしいくらいに大きく息を吐く。 そしていつもより何処か力なく、にゃはは……、と独特の笑い声を上げた。 「わたしはいい後輩くんを持ったものだなあ! シロちゃんてば嫉妬してるのねーへへへ」 圭が「いい後輩」であることへの嫉妬なのか、圭がかえでと仲が良い事への嫉妬なのかは分からなかったが、 少し嬉しそうに照れ笑いするかえでを見て、圭はため息を零す。 どうしたのかと目をぱちくりさせて首を傾げるかえでに対して、少し言いにくそうに肩を竦めた。 「嫉妬というか……九十九先輩は俺の事が単純に嫌いなだけだと思います」 「本当に嫌いだったら、シロちゃんは鈴虫にあんな事言わないと思うけどなあ」 圭の言葉に、かえではぽつりと呟きを漏らす。 驚いた表情で圭がかえでの方を向くと、彼女はいつもの調子で「にゃはは!」と笑った。 相変わらず不思議な人だと思いながら、圭はチョコレートの礼を言ってかえでと別れ、寮の自室に戻る。 毎日少しずつ消費しようと、自室の一角に設けたチョコレートの包みの山に、 かえでから貰ったチョコレートの包みを加えた。 普段あまり座らないデスクチェアに腰掛けて、デスクに置かれた箱を眺める。 その中には彼女が用意したチョコレートが入っていた。 一応女子であり、たとえ男装していてもバレンタインの際男子が女子に、男子が男子に、 チョコレートを渡してもおかしくないと認識されている昨今。 圭も近しいと思っている人物には男女関わらずチョコレートを贈っていた。 勿論、先程はかえでに対しても、だ。 しかし、持ち合わせていなかったのもあるが先程の空気もあいまって、白には渡せていない。 二年生の中では恐らく唯一、圭の性別を知っている救護班の一員として、 世話になる事が多々あったにも拘らずである。 圭は白の事が嫌いではないが、苦手だった。 それを白から嫌われていると思う事で、ただ自分を正当化しようとしていただけなのである。 かえでが最後に呟いた言葉が真理なのだと、圭には痛いほど理解出来た。 バレンタイン云々ではなく、謝罪しなければいけないだろう。 意を決して、圭はチョコレートの箱をひっ掴むと部屋を飛び出した。 救護室は何部屋もあるのだが、白は一人に集中して治療を施し、終わればまた一人に、 といった具合で患者を診る為、個室に居る事が多い。 とある個室は殆ど白専用となっており、案の定白はその部屋に居た。 「どうしたの鈴虫さん。かえでの言う事を信じたんじゃなかったの」 白はデスクの書類、恐らく生徒達のカルテに目を通したままで言い放つ。 この様な文句に一々突っかかるから、いつまで経っても先に進まないのだと、冷静になれば圭にも分かる。 しかも白は嫌味で故意に煽ろうとしている訳ではなく、全く悪気無く発言しているのだ。 「その事ではないのですが、九十九先輩に謝ろうと思い伺いました」 圭の言葉に、白の動作が目に見えて静止する。 一瞬の硬直の後、大きく息を吐くと彼は書類をまとめてデスクの隅に追いやり、漸く圭の方を向いた。 圭は緊張した面持ちのまま、思うところを白に述べ、その事について謝罪の言葉を告げる。 少し驚いた表情をしながらも、彼は口出しせず最後まで黙って聞いていた。 やがて圭の言葉が締めくくられると、白は少し考えた後ゆっくりと口を開く。 「そんな事でわざわざ謝りに来たの。苦手なら苦手で良いじゃん。 俺も鈴虫さん苦手だけど、今のところ俺にしか診れない事もあるし。それが俺の仕事だから」 「では、いつもありがとうございます、という事で」 そう言って圭は、持ってきたチョコレートの箱を両手で持ち、態とらしく恭しい動作で白に差し出した。 白は圭の予想外にあっさりとそれを受け取る。 そして、彼は鞄の中から一枚のチョコレートを取り出し、お返しとでも言うように圭に手渡した。 特別な包装はされておらず、パッケージからそれが普段は圭には手の届かない程に高級なもので、 カカオ含有量の高いビターチョコレートである事が分かる。 何故渡したかまでは口にしなかったが、「礼を言うならこちらこそ」という意味だろうと圭は解釈した。 基本的には救護班は戦わない。 戦闘員が居てこそ、白軍は守られ、救護班も円滑に仕事を行う事が出来るからだ。 あえて口にしなかったのは、それすら皮肉になり兼ねなかったからであろう。 白は意識して皮肉を言うのは好まない質であった。 「チョコレートの食べ過ぎには注意しなよ。でもカカオ含有量の高いチョコレートは体に良いから少しなら食べても大丈夫。 媚薬効果も高いんじゃなかったかな。わざわざ媚薬を入れる必要無くて、手っ取り早いかもね」 白が悪戯っぽい微笑を浮かべるのに合わせて、圭は眉を顰めて目を逸らす。 そういう所が苦手なんですよ……とは、彼女には言えなかった。