それは、極めて見事な夜明けであった。
荒れ狂う波は岸壁にぶつかって砕け、白く泡立つ。
朝焼け色に染まった仄明るい海の方を向いて、二人の男女と少女が立っていた。
「本当に、良いんですか?」
薄汚れた赤い服を身につけ、緩くウェーブした栗色の髪を横で一つに纏めている女性が、
自身の右側に立つスーツ姿の黒髪の男性の方に顔だけを向ける。
やつれた風貌からは想像も付かない、凛とした声で女性は問いかけた。
彼女の左側には、同じく赤い服を着た黒髪の少女がひしと彼女の腕に掴まり、寒さに震えている。
波に攫われるのを恐れているかのようだ。
少女も少し体を前に擡げ、女性に倣って男性の方を向いた。
男性は彼女たちを一瞥した後、海の方に向き直り、大きく一度頷く。
「……余程の事じゃない限り、断れないよ」
男性は自嘲気味に笑う。
独り言のつもりだったその声は波の音に掻き消されたかと思いきや、女性の耳にもしっかり届いていたようである。
その表情がさっと曇ったのを、男性は瞬時に捉えた。
女性は肩を竦めると、先程の声とは打って変わった消え入りそうな声で、小さく謝る。
これは失敗した、と後悔しつつ、男性は頭を掻いた。
「謝らなくたって良いのに……らしくないなぁ。頼まれたら断れないのは、僕の性格に問題があるんだよ」
そして彼は少し考えた後、にこやかに、しかし大事そうに言葉を紡いだ。
「それに『困った時はお互い様』でしょ」
「ふふ、貴方は相変わらずですね」
そう言って悪戯っぽく魅力的に笑う女性は、数年前と変わらない、あどけない少女の残像を男性の脳裏に過ぎらせた。
そうする事で彼の頭の中は、途端にこの場には居ない者達との思い出に支配される。
その時は楽しかったけれど今思い出すのは辛い、思い出。
思わず男性は眉を顰めた。
それを思い出させた女性自身も、同じ回想に浸っているのだろう。
二人は暫く、一層の煌めきを見せ始めた海を静かに見つめていた。
少女だけが、女性と男性とを交互に見やりながら、不安げにその瞳を揺らしている。
その不安に耐えきれなくなった時、少女はそっと女性の腕に触れて揺さぶった。
「あ、ああ、ごめんなさい。つい昔の事を考えてしまいました」
女性が少女の方を向いてばつが悪そうに微笑みかける。
少女は黙ったまま唇を尖らせ、態とらしく不平そうにしてみせた。
潮風に靡く、少女の細く艶やかで長い黒髪を、女性は愛おしそうに撫でる。
優しい手の動きに少女は目を細め、心地良さそうに身をよじった。
そんな母娘の無言のやりとりを眺めながら、男性は一瞬だけより一層辛そうに眉を顰める。
そして、躊躇いつつも意を決した様に口を開いた。
「ごめん、本当に申し訳ないんだけど、そろそろ時間が……。
僕たちはそろそろ行かなくちゃいけないし、君はそろそろ戻らなくちゃ」
女性は少女に触れていた手を止めて静止する。
ややあって息を大きく吐くと、不思議そうに彼女を見上げる少女の手を引いて、自分と男性との間に導いた。
男性はその場にしゃがんで、少女の目線に合わせる。
少女は母によく似た大きな紅色の目をぱちくりさせて、小首をかしげた。
「僕は、君の、お父さん」
男性は、ひとつひとつの言葉を慎重に紡ぐ。
「おとう、さん?」
「うん。今まではお母さんと二人きりだったけど、今日から君は僕と、
……お父さんと二人で暮らすんだ」
少女はその言葉を飲み込むのに少々時間を要した。
彼女の記憶の中にほんの少しだけ残っている、父親のイメージを頭の中で手繰り寄せる。
これは栗色の髪をした母とは異なる、美しい黒髪は父親譲りなのだと母が言っていた事を思い出した。
そして、自分と同じく黒髪の男性を、じっと見つめる。
目の下の真っ黒なクマが、少々不健康そうな男性だ。
何処かそのイメージがぼんやりとしているせいか、それとも告げられたのがあまりにも急だったせいか、
目の前の男性が自分の父親だと言われてもいまいち釈然としない。
それでも、母親がこんなにも信頼を寄せているのならば、と聞き分けの良い少女は直感的に納得してみせた。
しかし、彼女にもどうしても男性の言葉に納得できない節がある。
「おかあさん、は?」
二人で暮らす。
二人、というのは、自分と父親のこと。
母親が人数に入っていないということだ。
少女の父親を名乗った男性は、女性の方をちらりと窺って、申し訳なさそうに肩を竦めた。
「ごめん、お母さんは一緒にいけないんだ」
「どうして?」
「今は、言えない。君が大きくなったら教えてあげるよ。
……君は大きくならなくちゃいけない。その為には、僕と二人で行くしかないんだ」
少女は再び、瞳を不安げに揺らしてみせた。
男性を見つめる紅色の瞳。
形は少し吊り気味で、つぶらという言葉が似合う母親のそれとは異なる。
しかし、紅色の花を映したようなその色合いは、女性の持つ色合いと全く同じである。
男性も同様に赤い瞳を持っていたが、微妙な色の差がある事が男性自身にも分かる。
少女は掠れた声でもう一度繰り返した。
「どうして?」
「……このままじゃ、君は大きくなれないかもしれないから。
尤も、僕と二人で居ても、その可能性が低くなるってだけだけどね」
無邪気な少女には、まだその言葉を理解するには幼すぎた。
しかし、確実に得体の知れない恐怖感のような何かが、彼女の背中をそっと撫でる。
それは、飛沫の混じった潮風の冷たさのせいか、それとも……
思いを巡らせただけで怖くなり、少女は考える事を放棄した。
此処で拒絶の意を示したとしても、両親を困らせてしまうだけだろうと察した少女は、意を決して男性の方へ進み出る。
女性は涙ぐみながらも、少女の歩みを更に後押しして促した。
「この子を、よろしくお願いします」
「うん、任せて」
男性は少女に手を差し出すと、滑らせる様にその手首の辺りを優しく掴んだ。
少女は男性と女性とを見比べるように顔を動かすと、緊張した面持ちで身を固くさせる。
その事が手から伝わったのか、男性は空いている方の手でそっと少女の肩に触れた。
女性も、大丈夫ですよ、と優しく声を掛けながら少女に微笑みかける。
その声を、その微笑を、きっと忘れまいと心の中で少女は誓った。
男性に手を引かれ、女性に背を向けてゆっくり歩き出したと思いきや、数歩進んだ所で男性が足を止める。
女性の方に振り返る彼を、少女は不思議そうに見上げはしたものの、それに倣って振り返ろうとはしなかった。
振り返ってしまえば、突然自分の父親だと名乗ったこの男性の手を振り解いてしまうだろう、
自分の母親であると確信している女性の元へ、戻ってしまうだろう、と考えたからである。
「また会おうね」
この場の雰囲気には似つかわしくない屈託の無い笑みを浮かべる男性に、女性ははっと息を呑んだ。
少女と似た色をした瞳を、きらりと涙で潤ませる。
しかしそれは眼球の上を漂うだけに止まり、溢れて頬を伝う事はなかった。
堪え切る事の出来た証拠にゆっくりと一度嚥下して、曇りの無い笑顔を返す。
「ええ、いつかまた……!」
男性はゆっくりと一度大きく頷くと、再び少女の手を引いて歩き出し、ややあってから速度を上げて走り去る。
もう彼らが振り返る事は無かった。
その背中たちが見えなくなるまで見送り、一人取り残された女性は、小さく息を吐く。
日は先程よりも高く昇り、辺りは随分明るくなる。
夜明け頃はまだ曖昧だった空と海との境目を、くっきりと水平線が分かつ。
海の方に向いて、水平線と光とを暫く眺めていた女性は、不意にぽつりと呟いた。
「ごめんなさい。これに頼るのは、もうやめにしようと思っていたんです」
彼女は髪を一つに纏めていたヘアゴムを外し、うねる髪をするりと解放させる。
ピンクのリボンの付いたヘアゴムは、ずっと彼女のお気に入りだった。
外したそれを左の手首にはめる。
ふわりふわりと、別の生き物のように、女性の栗色の髪が風に踊っている。
髪を一つに纏めていた時は、露わになっていたうなじに黒々と主張されていた杜若の刺青。
その刺青が、風の気まぐれに髪の隙間を見え隠れする。
風は日が昇っても尚冷たく、同様に海もまた冷たいだろうという事が触れずとも感じられた。
しかし、女性は事もあろうに履いていた赤い靴を脱いで裸足になり、揃えて脇に置いたのである。
「大切な人達に、一足お先に会いに行きます。会えますよね? 会えるに決まってます」
ゆっくりとした足取りで、崖の縁まで進む。
その面持ちはとても穏やかだったが、ふと何かを思い出したように振り返った。
茂みと奥に広がる深い森以外、何も無く誰も居ない所をぼんやり見つめ、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
この事が後々何かに影響しないかと、彼女は危惧してしまった。
たった一度のほんの些細な選択が、一人の生死を左右し、人々の人生を翻弄し……
世界を振盪させ得る重大な選択となる事だってあるのだから。
端から重大な選択だと分かる事柄に関しては、尚更である。
しかし彼女が躊躇っている時間は無かった。
止まる事を知らない流れる時間は、そうしている間にも過ぎて行く。
現在を感じている時ですら、未来は過去へと移り変わっている。
時間の流れ、空間の広がりに、もしも逆らう事が出来るのならば。
自分達の選択をやり直す事が出来るのならば。
こうはならない、こうはさせないだろうと女性は思った。
しかしそれは、海の泡沫よりも儚く、途方もない夢想である。
意を決した彼女は、再び眼下に海を臨む。
「さようなら」
女性は朗らかな笑顔のまま、空を飛んだ。
大海に抱かれて、彼女は夢を見たという。