圭の調子は良好で、ちょうど良く夕食の時間になった為、安治達は救護室を後にして食堂に向かう。 何とは無しに二年生三人が前、一年生四人が後ろの七人で歩いていたが、安治は疑問に感じていた事を問うことにした。 「確か先輩方って、よく四人で行動なさってましたよね?」 三人の歩みがぴたりとほぼ同時に止まる。 触れてはいけない話題だったのだと安治が気付いたのは、 小刻みに体を震わせ始めた魁の跳ねっ毛の一部の束が、まるで鬼の一角の様に屹立してからであった。 友人達からアホ毛ならぬ「オニ毛」と呼ばれているそれは、沸点の低い魁が怒った際にしばしば起ち上がるのである。 「もう一人は……白夜は死んだ。オレのせいで!」 安治達の方に振り返る事なくそう言い放つと、この場に居た堪れなくなったのか、魁は無言でその場を立ち去った。 同じ様に食堂へ向かっている人の流れが一瞬止まる。 彼らはちらちらと、立ち止まったままの安治達を一瞥した後通り過ぎて行った。 かえでと白はそれぞれ足を出しかけて留まり、顔を見合わせてゆっくりと振り返る。 「君達が気にすることはないよ。死傷者が出るなんて事も此処ではよくある事なんだから。 ……まあ、一つ忠告するなら、今後発言には気を付けた方がいいかもね」 「シロちゃんってば一言多い! かっしーはキレるとオニになっちゃうから後輩各位は覚えとくように! それじゃまたね! ……待ってよかっしー!」 かえでが発言を終えるや否や、白も合わせて二人で小走りに魁を追い掛けていった。 形容し難い、何処と無く重苦しいような空気がその場に漂い、安治は肩を竦めて咄嗟に謝る。 怪我人は勿論のこと、死人が出るのは当たり前。 しかしその死人にも一人一人、生前関わりを持っていた人間が存在して、 その残された人々もそれなりの傷を心に負うのだろう。 この戦争においてはおろか、 未だ家族や友人などの大切な人間の死を味わった事のない安治には、少々理解が出来ていなかったのである。 自分の軽率さを安治が内心で恥じていると、重い空気を打破せんと、みかるが安治達の方を向いて元気良く体を揺すった。 「早く行かないと混んでしまいますよ! 勿論、皆さんで一緒に食べますよね?」 明るい口調で呼びかける彼女に、安治は少なからず救われた気分になり、ほどけた様な微笑で応じる。 自分から考える事を途中で放棄せねば徐々に悪い方向へと思考が展開していくのが安治の常であったため、 この様に外的要因で思考を遮断されるのはありがたいのだ。 相変わらずの有無を言わさぬみかるの態度に、平承は勿論首を縦に振った。 しかし圭だけは短く「俺は一人でいい」とみかるの呼びかけを否定すると、すたすたと彼らを残して歩き始めてしまった。 先程までは先輩が居る手前断りづらかったのだろう、安治達が呆気にとられている間に圭はすっかり見えなくなる。 安治達は無言で顔を見合わせた後徐々に人の増えるのを感じ、誰が言った訳でもなく早歩きで食堂までの道を急いだ。 安治は食事の後、昼間に庶務部で請け負っていた事務仕事をする為に図書室に向かっていた。 本当は昼間でも処理出来たものもあったのだが、 ほんの休憩のつもりで静かに休める寮裏の森へ行ったのが運の尽きだったのである。 階段を上り、部隊長室を通って行こうと考えていると、 先に上がって行くのが見えた二人の内片方に見覚えがあり、安治は思わず廊下と階段の間に身を潜めた。 今圭と対面するのは、何処と無く気まずさを感じるだろうと思ったからである。 圭と並んで歩くもう一人は、美しい銀髪をピンクのリボンで纏めた背の高い女子生徒であった。 「九十九……白の方が仰ってましたわ。貴方がおかしな夢を見たのだと」 さほど興味が無さそうに、安治の予想よりも低い声の女子生徒は丁寧な口調で言い、 部隊長室の一つの手前で立ち止まる。 圭に「空(くう)さん」と呼ばれた女子生徒は、そういえば白と同級生だったと圭が言ったので、 空は二年生であることが安治にも分かった。 空が圭の方を向くと横顔が見える。 睫毛が長く、色素の薄い灰色の目は常にアンニュイな色と冷徹さを湛えていた。 「わたくしは九十九同様、貴方の夢には興味はございません。つまるところは……」 「鏡さん、でしょう?」 空が言い終えるより早く圭が答えるのを見下ろしたまま、空はゆっくりと瞬きしながら鼻で息を吐く。 表情一つ変えずに、そこまで助かった印象を与えないが「物分りが良くて助かりますわ」と、取って付けた様に言った。 空に「お姉様」と呼ばれた事から、「鏡さん」は空の姉らしい。 鏡と言えば、安治が思い出すのは、 自身の所属する部隊の部隊長・朽縄鏡(くちなわきょう)の事である。 何処か裏を感じさせる様な余裕綽々の笑みを常に浮かべた彼女と、 目の前の能面の様に表情の変わらない空とを見比べると、確かに根本的な顔の作りは似ていると安治は感じた。 「どうせ君、今男子寮の部屋の空きが無くて、お姉様のお部屋を使っているのだろう?」 空は心なしか不機嫌そうに問いかける。 突然声音も口調も変わった事に安治は思わず驚いた。 それよりも驚いたのは、空の言った内容である。 この学校は現在とある事情で、男子の人数が女子の人数の倍近く在籍している。 しかし寮の部屋数には男女共限りがある為、女子は二人部屋を一人で使用しているのに対し男子は二人部屋である。 それでも今年度は男子の部屋数が足りないらしいという噂を、安治も耳にしたことがあった。 自分には関係ない事だと思っていたが、 知らない所でその様な事になっていたとは、安治にとっては思いがけないことである。 しかし圭はまったくの平静のままで頷く。 それを見て空は少しだけ満足そうに息をついた。 「わたくしがお膳立てしておきましたから、お部屋に戻られた際にはお姉様に必ずお話差し上げてくださる?」 安治は空の声音と口調とが元に戻った事に混乱する。 まるで別人が話しているかの様なのだ。 その事に関しては特に驚く素振りを見せない圭は、鏡同様に空とも長い付き合いなのだろうと安治は思った。 しかし、圭は今の空の発言にはどうやら驚いたらしい。 目を見開いて空を見る圭の横顔が安治にもはっきりと見えた。 そして、彼女は上目で空を見つめながら、躊躇いがちに問い掛ける。 「あの……お言葉ですが、空さんって鏡さんの事お嫌いだったのでは……?」 「勿論現在進行形でな。それが何か」 さらりと答える空の声音と口調が再び変化したことには、安治はもう驚かなかった。 それにしても、姉である鏡の事をこうも平然と嫌っているとは。 安治は一人っ子である為その感情すら抱く事が出来ないが、 少なくとも家族を嫌う事などは無いだろうと内心思った。 結局は、無償で自分を愛してくれるのは家族だけなのだと思っていたからである。 安治は少し落胆し、朽縄家は特別なのだろうと思う事にして考える事を止めた。 あまりにも淡々とした態度に逆に気圧されたのだろう。 圭は少し萎縮した様子で肩を竦めると異論は無いと言いたげにしながら、頭を下げて空に別れの挨拶をした。 空が「御機嫌よう」と丁寧にお辞儀を返す。 ゆっくりとそれを見届けた後、圭は素早く部隊長室の扉を開けてその奥へと消えていった。 本当は女子同士であるのだから、鏡と圭が同室であっても表面的には問題はない筈である。 しかし安治を含め殆どの生徒は、彼女の秘密を知らない。 「『お姉様の、お部屋』……?」 思わず安治はその場で独りごち、腕を組んでうーんと唸る。 考え過ぎても面倒くさい上に、知り過ぎては更に面倒くさい事になるだろうとの予測は彼にも出来ていた。 それでも何故か気になるのである。 思考の中で板挟みになっていると、安治の目の前に急にぬっと人影が現れ、 彼は思わず短い叫び声を上げた。 「お姉様のお部屋は、部隊長のお部屋ですわ」 安治が驚きの声を上げようと、空の表情は全く変化しない。 圭と別れてから安治の前に現れるまでの時間はそれなりにあったものの、 気配を感じさせずに移動してみせたのは驚きであった。 髪を飾るリボンと同じピンク色をしたリボンがよく映える黒いブラウスは、暗殺部の証。 成る程暗殺部所属ならば気配を消すのが得意なのも頷ける、と安治は内心納得した。 彼らは他人の気配にも特に敏感だ。 安治の気配を圭との会話中にも感じていたのだろう。 「えっと、貴方は朽縄部隊長の……?」 「僕は朽縄鏡の『弟』で暗殺部二年の朽縄空だ。……こんなナリでもわたくし、男なんですのよ」 安治の問い掛けに応じ、彼が驚きを隠せないでいても、空は顔色ひとつ変えなかった。 確かに身長は女子にしては高い方に分類されるだろうが、 鏡も空と同じくらいの身長であったと安治は記憶していた為参考にはならない。 丁寧すぎる口調に比べれば粗野な喋り方をする時は声も低くなるが、 女子の低い声と言っても違和感はあまりない。 彼女ならぬ彼の謎も気になるところではあったが、 何処か気怠そうに安治の次の言葉を待っている空に気付いて、安治は恐る恐る圭達についての疑問を投げ掛けた。 「あ、その。どうして鈴虫くんが部隊長のお部屋を使っているんです? ……部隊長って女子なのにその、いいんですか?」 ギロリと、空の冷ややかな視線が氷柱の様に鋭くなったのを安治は感じる。 何も言わずとも、安治の発言が気に食わなかったのは明らかだ。 先程もそうだった。 姉である鏡の話になると、あからさまな嫌悪感が目と声に出る。 顔全体には表れない所が空らしいが、寧ろ顔全体に表れるよりも相手に威圧感を与えた。 「詳しい事は存じ上げておりませんわ。貴方が直接、お姉様か鈴虫圭に事情をうかがってみてはいかが?」 微量であるが棘を含んだ声で、ゆっくりと首を傾げられては何も言い返す事が出来ない。 安治は肩を竦めると、俯きがちに押し黙る。 呆れた様なため息の後、空が何か言いかけるより先に、 偶然通りかかったかえでが二人を見つけて声を掛けてきた。 「あれー? 誰と話してんのかと思ったら、神原じゃーん! やあやあ数十分ぶりー!」 二人の会話の内容など露程も知らないかえではいつも通りで、 この状況では場違いとも言える様な明るい声音で安治と空に手を振りながら近付いてくる。 それに対して安治は少し安堵した様子で頭を下げ、空は軽く眉を顰めた。 救護室で再会したのは勿論の事、安治とかえで達が同中学校の知り合いだったことも空は知らない。 かえでは簡単に安治との関係について説明した後、彼が自分の圭の後輩である圭とも友人なのだと紹介した。 正確には安治達が一方的に知っているクラスメイトというだけで、友人とはとても言い難い。 しかし、二人の先輩を前にして些細な事で改めるのも面倒だったので、何も言及せずに安治は頷いた。 空はそれを聞いて少しだけ目の色を変え、頭からつま先まで品定めでもするようにゆっくりと安治を観察する。 「ふうん、お友達、ね。……覚えておいてやってもよろしくてよ、神原安治」 そう言うと空は、初めて安治に向かって少しだけ口角を上げた。 多少でも笑うと、やはり空は鏡に似ていると安治は内心思う。 何故空が女装しているのか、何故彼が姉をここまで嫌悪しているのかは安治には分からない。 しかし、空はただなんとなくで事を決めるような人間ではない事だけは安治にも理解出来る。 此処ぞとばかりに微笑を浮かべ、次見た時にはまた能面の様な表情に戻った空と、 満足そうに頬を緩ませるかえでに向かって一礼し、安治は微笑みかけた。 「朽縄先輩、白上先輩、ありがとうございました。僕そろそろ仕事に戻りますねー」 空の上品な「ご機嫌よう」と、かえでの気の抜けるような「がんばー!」を背に、 安治は図書室に向かって再び歩き出す。 知っても知らなくても自分には殆ど関係の無い事なのに、彼はもっと知りたいと思ってしまった。 公表されていない辺り、空はともかく出来れば当事者である鏡や圭達にとっては なるべくならば知られたくなかった事だろう。 それを自覚しても尚、より一層、その思いは募っていってしまう。 興味を示せば面倒事に巻き込まれるだけなのに。 安治は一度立ち止まると、募る思いを振り払わんばかりに首を左右に振る。 彼にとって今一番重要なのは、自分の事なのだから。 目の前に立ちはだかる仕事の山を考えれば、安治は何もかもを忘れて没頭する事が出来たのであった。